いただきます。 食育。
食卓に水を置いて、流し込み食いするのは良くない。
咬まなくなる。嚥下癖を助長する。
しかし、まあそれは大したことではない。
僕たち団塊の世代周辺が、長く食卓にあった貴い遺産を全共闘のように投げ捨ててしまった。
戦後に足したものを、全部取り除けばいいのではないかと言った。
それは違う。失ったものを取り戻さなくてはならない。
それは、食育だ。でも、もう不可能かもしれない。
僕達団塊の世代周辺は、小学校が終わったら群れになって、あっちこちに吹き溜まりのようになって遊んでいた。
夕方、「ごはんだよ~」とあちこちの家からお母さんたちが叫び、それぞれ自分の家に帰る。
食卓のちゃぶ台を出して、お箸や食器を出したりするのは子供の役割だ。
そして、一家が揃い「いただきます」となる。
その後はあまり覚えていない。
たぶん、その家庭の事情によって明るい食卓だったり、暗い食卓だったりしたのだろう。
しかし、みんな揃って食事した。
”いただきます”と言った。
昔の洋画を見ると、よく「天にまします、我らの父よ。アーメン」とかお祈りをしてから食べる。
やはりこれが大事だったんだ!
だんだんテレビを見ながら食事するようになった。でも、それはそれで良かったように思う。
みんな揃って食事することが大切だ。
いまはどうなんだろうね?
仕事や、塾の時間が合わないんじゃないかな?
なんやかんや言っても我々は儲けること以上の価値を見いだせない。
虫歯の洪水が収まって患者さんが減ったら、心さみしい。
品格が無くていやだけど、いかんともしがたい心持。
永遠に経済成長するはずも無く、必ず破たんするに決まっているのだけれども・・・
先には崩壊しかない。地球が持たない。
それじゃ、昔の人は立派だったかと云うと、大差ないだろう。
違いは何かと云うと、食べることが出来ることがありがたかったという違い。
”いただきます””天にまします神よ”いまはそんな気にならないね~
偉そうなことは言えない。
僕は、大学にいたとき夕方になると気力が無くなって、とても具合が悪くなることがあった。
どうしてだろうと思いめぐらせると、朝寝坊して昼過ぎに大学に行って、そのままご飯を食べてない!
夜遅くまで麻雀をしていて起きられなかったのだ。
たぶん、いまもみんな同じようなものじゃないか?
コンビニに並ぶ弁当やヌードルを見ると、昔、大学時代にコンビニが無くて良かったなと思う。
もっと昼夜が逆転して、もっと具合が悪くなっただろう。
食事は、ただ栄養のための餌になってしまった。僕は、本を片手にして食べていた。
新しい時代の食育を模索しなければいけない。
食べなければ死ぬわけで、食べることは全ての根本。
そこから、全てが始まる。
しかし、今はそこが決定的に崩れてきている。
恐ろしいほどの歯列不正・不正咬合の蔓延。
それが証だ。
ただ昔は良かったと言うのはダサいね!
老人なりきり。
要するに、我々の子供たちは衣食足りて、足りすぎて!貴族の悩みを背負ってしまった。
いや、彼らが足りたのではない。親がそんなに困ってないのだ。
大金持ちや良い身分ではなくても、昔の貴族の子と変わらない。子供の視線で見たら同じだ。
モチベーションがわかない。余裕が出来て、余裕だらけなんだけど、親の”ただ自分が安心したい”という要求に応えなくてはならず、意欲がわかないから効率が悪くて余裕が無い。
僕らもそれに近かったけど、まだ自覚が無かった。
お前は何処から来て、何処に行くのか。そして、お前は何者か?
今の子供たちは、若くしてみんなこの問いの前に立たされて、心の休まるときが無い。
外からの課題があれば楽なのだけれど。
「これは、みんなあなたの将来のためなのよ」という母親の安全確実願望に逆らえない。
自分の将来の損得なんて、子どもにとってはくそ食らえだ。
子どものすきにしておけばよかったのにね。昔はいいところの家でなければそうだった。
子供たちははなはだ意欲がわかない状況で努力を強いられているのではないか。
まあ、黒くて丸い人なら、自分ひとりのために意欲満々でいられるだろうけど。
これこそが、今の日本の状況。
男の子はひきこもり、女の子は羽ばたいている。
女はたくましいね。自利を見失わない。
食べて、生きることが、すべてだ。
大震災でよく解る。アフリカの飢餓がある。
新しい食育とは”生きる力”なのかな?
日本の子ども(優しい男の子)に必要なのは、それだ。
咬まなくなる。嚥下癖を助長する。
しかし、まあそれは大したことではない。
僕たち団塊の世代周辺が、長く食卓にあった貴い遺産を全共闘のように投げ捨ててしまった。
戦後に足したものを、全部取り除けばいいのではないかと言った。
それは違う。失ったものを取り戻さなくてはならない。
それは、食育だ。でも、もう不可能かもしれない。
僕達団塊の世代周辺は、小学校が終わったら群れになって、あっちこちに吹き溜まりのようになって遊んでいた。
夕方、「ごはんだよ~」とあちこちの家からお母さんたちが叫び、それぞれ自分の家に帰る。
食卓のちゃぶ台を出して、お箸や食器を出したりするのは子供の役割だ。
そして、一家が揃い「いただきます」となる。
その後はあまり覚えていない。
たぶん、その家庭の事情によって明るい食卓だったり、暗い食卓だったりしたのだろう。
しかし、みんな揃って食事した。
”いただきます”と言った。
昔の洋画を見ると、よく「天にまします、我らの父よ。アーメン」とかお祈りをしてから食べる。
やはりこれが大事だったんだ!
だんだんテレビを見ながら食事するようになった。でも、それはそれで良かったように思う。
みんな揃って食事することが大切だ。
いまはどうなんだろうね?
仕事や、塾の時間が合わないんじゃないかな?
なんやかんや言っても我々は儲けること以上の価値を見いだせない。
虫歯の洪水が収まって患者さんが減ったら、心さみしい。
品格が無くていやだけど、いかんともしがたい心持。
永遠に経済成長するはずも無く、必ず破たんするに決まっているのだけれども・・・
先には崩壊しかない。地球が持たない。
それじゃ、昔の人は立派だったかと云うと、大差ないだろう。
違いは何かと云うと、食べることが出来ることがありがたかったという違い。
”いただきます””天にまします神よ”いまはそんな気にならないね~
偉そうなことは言えない。
僕は、大学にいたとき夕方になると気力が無くなって、とても具合が悪くなることがあった。
どうしてだろうと思いめぐらせると、朝寝坊して昼過ぎに大学に行って、そのままご飯を食べてない!
夜遅くまで麻雀をしていて起きられなかったのだ。
たぶん、いまもみんな同じようなものじゃないか?
コンビニに並ぶ弁当やヌードルを見ると、昔、大学時代にコンビニが無くて良かったなと思う。
もっと昼夜が逆転して、もっと具合が悪くなっただろう。
食事は、ただ栄養のための餌になってしまった。僕は、本を片手にして食べていた。
新しい時代の食育を模索しなければいけない。
食べなければ死ぬわけで、食べることは全ての根本。
そこから、全てが始まる。
しかし、今はそこが決定的に崩れてきている。
恐ろしいほどの歯列不正・不正咬合の蔓延。
それが証だ。
ただ昔は良かったと言うのはダサいね!
老人なりきり。
要するに、我々の子供たちは衣食足りて、足りすぎて!貴族の悩みを背負ってしまった。
いや、彼らが足りたのではない。親がそんなに困ってないのだ。
大金持ちや良い身分ではなくても、昔の貴族の子と変わらない。子供の視線で見たら同じだ。
モチベーションがわかない。余裕が出来て、余裕だらけなんだけど、親の”ただ自分が安心したい”という要求に応えなくてはならず、意欲がわかないから効率が悪くて余裕が無い。
僕らもそれに近かったけど、まだ自覚が無かった。
お前は何処から来て、何処に行くのか。そして、お前は何者か?
今の子供たちは、若くしてみんなこの問いの前に立たされて、心の休まるときが無い。
外からの課題があれば楽なのだけれど。
「これは、みんなあなたの将来のためなのよ」という母親の安全確実願望に逆らえない。
自分の将来の損得なんて、子どもにとってはくそ食らえだ。
子どものすきにしておけばよかったのにね。昔はいいところの家でなければそうだった。
子供たちははなはだ意欲がわかない状況で努力を強いられているのではないか。
まあ、黒くて丸い人なら、自分ひとりのために意欲満々でいられるだろうけど。
これこそが、今の日本の状況。
男の子はひきこもり、女の子は羽ばたいている。
女はたくましいね。自利を見失わない。
食べて、生きることが、すべてだ。
大震災でよく解る。アフリカの飢餓がある。
新しい食育とは”生きる力”なのかな?
日本の子ども(優しい男の子)に必要なのは、それだ。
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亡くなった甲田光雄医師の『あなたの少食が世界を救う』は、単に需給問題だけでなく、健康でいるための食べ方、人間本来のあり方を説いています。私は朝食を摂りません。慣れてしまえばその方が体調がいいからです。消化するためのエネルギーを排泄に使えるからだと思います。
食育とは、〝食べること〟と同時に〝食べないこと〟も身につけることではないでしょうか?文科省の朝ごはんキャンペーンには引っかかるものを感じています。
今後の展開に期待しています。