ご利益を融通してもらえるということ
一昨年の誕生日に、神社の祝詞が我々の思考形態を規定したのじゃないかということについて書いた。
除菌とか、消臭とか、ウォッシュレットとか、ラップとか、包装とか、日本人は他に比べて圧倒的に潔癖症だ。
また、新酒とか、新米、新茶、ボージョレヌーボーなど、新しいものを好む。
これらの性癖は、祝詞の 祓い給い清め給え という言葉によるものだろうということだ。
日本の神は、古くて薄汚れたものが大嫌いなのだと思う。だから、式年遷宮する。
あれに続く発見があったので、それについて書きたい。
お盆に京都の大原に行った。
あのデュークエイセスの歌があまりにも雰囲気があって、お上りさんの僕が京都に行くたびに気なっていた。
三千院は、紅葉の時には雰囲気があるのかな~とは思ったが、まあ、期待外れ。
そこから少し上ったところに、来迎院という閑散としたお寺があった。
そこに行く途中の登り道に、そのお寺の縁起がペンキの看板絵で、絵巻物風に4~5枚立てかけてあった。
良人とかいうお坊さんの事績が書いてあった。
融通念仏宗を起こした人だという。僕は、不覚にも全く知らなかった。
そこの看板絵に書いてあったのは、念仏の修行をしてその功徳を、生活に追われて修行の余裕が無いため無知蒙昧でいる衆生に融通してあげる。という発願をして宗派を確立した上人の顕彰であった。
大阪に大きな本山があるらしいから有名な宗派で、僕が無知だっただけなのだろうが、驚いた。
僕の家は浄土真宗で、なまんだぶ と念仏を唱えれば死んだ後に浄土に生まれ変わることが出来るという教義であるが、葬式以外では誰も唱えない。
だいたい、そんなことに意味があると思っている人など居ないのではないか?
それじゃ、何も宗教心が無い中国人のような無神論者かというとそうではない。
その理由に得心がいった。
浄土系の宗派は法然からだと思っていたけれど、その前にこの上人が居たというわけだったのだ。
仏教というのは哲学で、認識なわけなので、勉強するか修行しないと悟りは得られない。
面白いことに、仏教は昔の宗派ほど教義が難しくて後になるほど易しくなってきて、最後はばかばかしいほど教義も修行も簡単になる。
改良されてきたというか、楽して儲けるスタイルに進化してきた。
良人とかいうお坊さんは先駆けなので、念仏を楽ではない大変な修行であると理解していたようだ。
滝の音が聞こえなくなるほど声明を唱えて、その一心不乱な念仏の彼方から阿弥陀如来が顕現してくるのだろう。
僕は、あのペンキ絵を見たとたんに、そうだ、僕はこれを信じていたんだ!と瞬間に確信した。
親鸞によって、まるでキリスト教のような罪の自覚が言われて僕も若い時には何か高級な感じがしたが、自分を振り返っても親や子供や友人や周りを見ても、欧米や中国にいると思われるような悪人は見当たらない。
悪いことをしないわけではないが、つい出来心で。とか、追いつめられて仕方がなく。ぐらいだ。
なぶり殺しにするのを楽しむとか、罠に嵌めることをもっぱらとするとか、大虐殺とか、強烈な人種差別・民族浄化のような感覚は、日本では精神異常者しかいない。
コンピュータを考えると、インストールされたプログラムによって脳のCPUが情報を処理するわけだから、罪びとプログラムがインストールされると罪びとが出来上がり、清明心がインストールされると、祓い清める程度で済む人間が出来上がる。
そうに違いない。
たぶん、日本の仏教の進化の歴史は、生前の行いで神社に祀られるかどうかのようなランクの違いはあるだろうが、もともと難しい勉強や修行をしなくてもちょっと身を清めていれば死んだら平等な神様?になれた神道の認識に戻すことだったのではないか?
浄土真宗では、阿弥陀様によって浄土は約束されているからお礼の念仏だというけど、そうかな~ 阿弥陀様だけの性格だろうか?
クリスマスと除夜の鐘と初詣がよく日本人の宗教観を表すこととして言われるが、そのように何教であっても構わないのは、ご利益を融通してもらえるというのんびりとした信頼感が中心にあったのではないか?
そして、結局何の修行も悟りも必要が無く、死んだら戒名が付いて皆が仏になれることになった。
日本が発明した、神仏習合が最も優れた宗教だと思う。
普段何事も無い時は身を清めているぐらいでよくて、何か地獄のようなエアポケットに陥った時には仏典や聖書のような深淵に入ってでも何とか救いを求められる方策がある。これが、安全で有利な考え方だ。
宗教の持つ問題は、ほとんどがドグマ化とイデオロギー化によって起きている。
それは、単に思考停止状態が楽だからだろう。
穢れを祓って、身を清める。この自律的な反省と心がけを社会の成員がみな持っていて共有するから、安心がある。
キリスト教は、まっさらなCPUに黙示録みたいな破壊的なものをインストールしてしまうから、相当の数の正真正銘の悪人が出来上がるはずだ。それに、神と個人の1対1の契約では、社会の構成は成り立たない。
ぎすぎすした訴訟社会やグローバルスタンダードの搾取になるであろうことは、最後の審判で明らかだ。
神や仏以上の認識などあるはずがない。なぜなら、それらは人間の集合無意識の表れだからだ。
中国人のような唯物主義者は、まだお猿さんの段階なのだろう。
海外旅行をして分かるのは、食べ物も、サービスも、環境も、安全も、その他ほとんどが日本が一番だ。
それは日本人が特に優れているとかではなくて、祓い清める という大哲学で日本中がくまなく覆われているからだろう。
西方浄土のうわの空の夕焼け妄想を開陳してとても恥ずかしい。
しかし、脳のCPUが考えたことは、メモリーに仮に記憶されているだけだから、どこかハードなものに保存しないと忘れて跡形も無く消えてしまう。
諸行無常ではあるが、ちょっとメモしておきたいひらめきだった。
除菌とか、消臭とか、ウォッシュレットとか、ラップとか、包装とか、日本人は他に比べて圧倒的に潔癖症だ。
また、新酒とか、新米、新茶、ボージョレヌーボーなど、新しいものを好む。
これらの性癖は、祝詞の 祓い給い清め給え という言葉によるものだろうということだ。
日本の神は、古くて薄汚れたものが大嫌いなのだと思う。だから、式年遷宮する。
あれに続く発見があったので、それについて書きたい。
お盆に京都の大原に行った。
あのデュークエイセスの歌があまりにも雰囲気があって、お上りさんの僕が京都に行くたびに気なっていた。
三千院は、紅葉の時には雰囲気があるのかな~とは思ったが、まあ、期待外れ。
そこから少し上ったところに、来迎院という閑散としたお寺があった。
そこに行く途中の登り道に、そのお寺の縁起がペンキの看板絵で、絵巻物風に4~5枚立てかけてあった。
良人とかいうお坊さんの事績が書いてあった。
融通念仏宗を起こした人だという。僕は、不覚にも全く知らなかった。
そこの看板絵に書いてあったのは、念仏の修行をしてその功徳を、生活に追われて修行の余裕が無いため無知蒙昧でいる衆生に融通してあげる。という発願をして宗派を確立した上人の顕彰であった。
大阪に大きな本山があるらしいから有名な宗派で、僕が無知だっただけなのだろうが、驚いた。
僕の家は浄土真宗で、なまんだぶ と念仏を唱えれば死んだ後に浄土に生まれ変わることが出来るという教義であるが、葬式以外では誰も唱えない。
だいたい、そんなことに意味があると思っている人など居ないのではないか?
それじゃ、何も宗教心が無い中国人のような無神論者かというとそうではない。
その理由に得心がいった。
浄土系の宗派は法然からだと思っていたけれど、その前にこの上人が居たというわけだったのだ。
仏教というのは哲学で、認識なわけなので、勉強するか修行しないと悟りは得られない。
面白いことに、仏教は昔の宗派ほど教義が難しくて後になるほど易しくなってきて、最後はばかばかしいほど教義も修行も簡単になる。
改良されてきたというか、楽して儲けるスタイルに進化してきた。
良人とかいうお坊さんは先駆けなので、念仏を楽ではない大変な修行であると理解していたようだ。
滝の音が聞こえなくなるほど声明を唱えて、その一心不乱な念仏の彼方から阿弥陀如来が顕現してくるのだろう。
僕は、あのペンキ絵を見たとたんに、そうだ、僕はこれを信じていたんだ!と瞬間に確信した。
親鸞によって、まるでキリスト教のような罪の自覚が言われて僕も若い時には何か高級な感じがしたが、自分を振り返っても親や子供や友人や周りを見ても、欧米や中国にいると思われるような悪人は見当たらない。
悪いことをしないわけではないが、つい出来心で。とか、追いつめられて仕方がなく。ぐらいだ。
なぶり殺しにするのを楽しむとか、罠に嵌めることをもっぱらとするとか、大虐殺とか、強烈な人種差別・民族浄化のような感覚は、日本では精神異常者しかいない。
コンピュータを考えると、インストールされたプログラムによって脳のCPUが情報を処理するわけだから、罪びとプログラムがインストールされると罪びとが出来上がり、清明心がインストールされると、祓い清める程度で済む人間が出来上がる。
そうに違いない。
たぶん、日本の仏教の進化の歴史は、生前の行いで神社に祀られるかどうかのようなランクの違いはあるだろうが、もともと難しい勉強や修行をしなくてもちょっと身を清めていれば死んだら平等な神様?になれた神道の認識に戻すことだったのではないか?
浄土真宗では、阿弥陀様によって浄土は約束されているからお礼の念仏だというけど、そうかな~ 阿弥陀様だけの性格だろうか?
クリスマスと除夜の鐘と初詣がよく日本人の宗教観を表すこととして言われるが、そのように何教であっても構わないのは、ご利益を融通してもらえるというのんびりとした信頼感が中心にあったのではないか?
そして、結局何の修行も悟りも必要が無く、死んだら戒名が付いて皆が仏になれることになった。
日本が発明した、神仏習合が最も優れた宗教だと思う。
普段何事も無い時は身を清めているぐらいでよくて、何か地獄のようなエアポケットに陥った時には仏典や聖書のような深淵に入ってでも何とか救いを求められる方策がある。これが、安全で有利な考え方だ。
宗教の持つ問題は、ほとんどがドグマ化とイデオロギー化によって起きている。
それは、単に思考停止状態が楽だからだろう。
穢れを祓って、身を清める。この自律的な反省と心がけを社会の成員がみな持っていて共有するから、安心がある。
キリスト教は、まっさらなCPUに黙示録みたいな破壊的なものをインストールしてしまうから、相当の数の正真正銘の悪人が出来上がるはずだ。それに、神と個人の1対1の契約では、社会の構成は成り立たない。
ぎすぎすした訴訟社会やグローバルスタンダードの搾取になるであろうことは、最後の審判で明らかだ。
神や仏以上の認識などあるはずがない。なぜなら、それらは人間の集合無意識の表れだからだ。
中国人のような唯物主義者は、まだお猿さんの段階なのだろう。
海外旅行をして分かるのは、食べ物も、サービスも、環境も、安全も、その他ほとんどが日本が一番だ。
それは日本人が特に優れているとかではなくて、祓い清める という大哲学で日本中がくまなく覆われているからだろう。
西方浄土のうわの空の夕焼け妄想を開陳してとても恥ずかしい。
しかし、脳のCPUが考えたことは、メモリーに仮に記憶されているだけだから、どこかハードなものに保存しないと忘れて跡形も無く消えてしまう。
諸行無常ではあるが、ちょっとメモしておきたいひらめきだった。
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