「憂国忌」と壁のふし穴 -うわの空の三島論
歳を取れば誰もがそれまでの個人や家族とかの枠を超えて、地域とか国とか民族とかの歴史や運命に気持ちが向かっていくように感じる。
ある程度自分の欲が納まり家族に対する責任が終わると、心が透明になり優先順位が変化する。
僕も同じような経過を辿っているように思う。
60より少し前から手足が冷えるようになってきて、そのころからそのようなことに興味が向かうようになってきた。
僕がいつも見ているインターネットの放送で、三島由紀夫の3時間の特集の討論番組があった。
11月25日が、その割腹の日だったらしい。僕の大学6年生の時だった。
「憂国忌」という国粋主義者の集会が毎年あるが、僕はものすごく冷めて見てきた。
自殺願望のあるナルシストのホモが心中しただけでしょ。
それが、僕の感想。今もあまり変わらない。
僕の、高校大学時代は、三島由紀夫は今の村上春樹も真っ青のベストセラー作家だった。
僕も、ずいぶんよく読んだ。
その頃の僕は、異端文学がわりと好きだった。当時の流行りでもあった。
渋澤龍彦とか、ジョルジュバタイユとか。若気の至りだ。
三島由紀夫は、そのような異端文学のもつエロティシズムが一つの魅力だったと思う。
だが、感動しない。ものすごい腕なのは分かるが、なんか嘘っぽい。
それは、僕だけでは無くて、みんなが感じるのではないか?
目立ちたがりで、自分のヌード写真集を出したり、盾の会だってその一貫でホモ趣味が高じたんじゃないか?
そんな嘘っぽい人が、国を憂いて割腹するだろうか?
その番組を見ていたら、どうも1年も前にその割腹の日を決めていたらしい。
恐ろしい信念というか、律儀な計画性というか、殉教者に降りた啓示というか、呆れた。
1年も前に決めたスケジュールだからなのかタイミングも完璧にずれていて、みんなポカンとしただけだった。
いかにも三島っぽい嘘っぽさだと、多くの人は感じた。
一緒に死んだ森田必勝というのが、潮騒の新治のような三島の作品の美しい純朴な青年がそのまま実在になったような人物だったらしい。
それなら、一緒に華々しく死にたい気持ちは理解できないこともない。
僕は、1度だけ三島本人を見たことがある。
新宿に、その当時アートシアターといういわゆる前衛的な映画観が有って、そのわきの方から入る地下に、蠍座といういかにも三島好みの名前の狭い劇場があった。
そこで「アッシャー家の薔薇」という演劇が掛かっていて、パイプ椅子を並べて50~60人しか入れない席の斜め前に座っていた。
いかにも三島好みだったけれど、彼の作品では無かったように記憶している。
終わった後、役者とかにあれこれ感想を言っていた。
当時大学生だった僕は、あ~しまった。三島の文庫本でも持って来ていたらサインしてもらえたかも?とか、さもしいことが頭をよぎった。
しかし、その本物の三島由紀夫の印象は、チビで貧弱だった。
ボディービルをする人は、そのような肉体的なコンプレックスを持っている人が多く、三島もヨットで鍛えた慎太郎にバカにされていた。
「仮面の告白」はまことに素晴らしい。「金閣寺」は嘘っぽい。近代能楽集は素晴らしい。
「潮騒」は完璧だが昔の交響曲みたいなもので、佐村河内さんのような演出が無いと時代遅れとも言える。
たくさん読んだが、僕が一番好きなのは「午後の曳航」だ。
現代的で、神話的で、地中海の雰囲気がある。
しかしその小説は、少年が壁のふし穴から美しい母親と外人の船員の情事を覗くという話だった。
また、ふし穴からの覗きだ。案外、僕はそんな趣味があるのかしら?
まあ、のび太もジャイアンもスネ夫もそこは同じだろうから、ことさら老人が反省すべきことでもない。
番組である人が、100年後に「三島神社」が建つかもしれない。と言ったが、それは間違いなく建つように感じた。
建ったら、僕もお参りしたい。
どうも、かっこよく死ぬための口実であったような気がしてならないが、たとえそうであったとしても、今でも衰えないそのインパクトのパワーは神社に祀るほどの意義はある。
フセインやカダフィーの最後を見ると、アメリカのやり方は今でさえ恣意的で冷酷非情で残虐だから、特攻が無かったら間違いなく皇室は残らなかっただろう。特攻や硫黄島などで震え上がらせたからアメリカは本土決戦の地獄の戦闘を回避した。
核実験の効果の検証には盆地が最適なので最初の目標は京都だったという。ほんの偶然で免れたようだ。
京都と天皇が消滅したら、日本の文化と伝統のほとんどが無くなるに等しい。僕が住む北海道はソ連のものになっただろうし、間一髪だった。
まさに神風が吹いた。そう思うと、三島は特攻が大戦果を挙げたのだということを教えてくれたようでもある。
いつの間にか僕も、天皇=国体を護持することが日本人の使命であるように思えてきたのだ。
よいものはすべてそこから来ている。次代に引き継がなくてはいけないはずだ。
いま思いついたのだが「午後の曳航」は、美しい未亡人の母親が日本で、外人の船乗りはアメリカのことで、その情事を覗いているのが戦後世代で、その男の逞しさに目がくらんで惹かれていたのだけれども、愚鈍であることに気が付いて幻滅して殺す。という構造だったのだろう。
亡夫は、もちろん書いてはいないが、当然特攻隊員である。だからこそ、その情事は退廃的な背徳性を帯びているが、アメリカ人にそのような高尚な美意識を求めても無駄なわけで、幻滅して殺意が・・・という話だったわけだ。
そうに違いない。だから神話的だったんだ。なるほど~
ノンポリの大学生が、そんなアナロジーが分かるはずがないや。
このふし穴の意味も、45年も経って気が付いたな~
そのような問題意識を持つと、そう読めるという仕組みなのだろう。だから、嘘っぽくもあるんだよね。
鋭すぎる美意識がそうさせたのだろうが、やはり、なんかおかしいな~
自意識過剰で疲れて死にたくなる。大嫌いだったはずの太宰と同じ現代人の病気に憑りつかれている。
やはり、神社に祀らなくてはいけないな~
パチパチと柏手を打って、御霊を鎮めなくてはいけない。
ある程度自分の欲が納まり家族に対する責任が終わると、心が透明になり優先順位が変化する。
僕も同じような経過を辿っているように思う。
60より少し前から手足が冷えるようになってきて、そのころからそのようなことに興味が向かうようになってきた。
僕がいつも見ているインターネットの放送で、三島由紀夫の3時間の特集の討論番組があった。
11月25日が、その割腹の日だったらしい。僕の大学6年生の時だった。
「憂国忌」という国粋主義者の集会が毎年あるが、僕はものすごく冷めて見てきた。
自殺願望のあるナルシストのホモが心中しただけでしょ。
それが、僕の感想。今もあまり変わらない。
僕の、高校大学時代は、三島由紀夫は今の村上春樹も真っ青のベストセラー作家だった。
僕も、ずいぶんよく読んだ。
その頃の僕は、異端文学がわりと好きだった。当時の流行りでもあった。
渋澤龍彦とか、ジョルジュバタイユとか。若気の至りだ。
三島由紀夫は、そのような異端文学のもつエロティシズムが一つの魅力だったと思う。
だが、感動しない。ものすごい腕なのは分かるが、なんか嘘っぽい。
それは、僕だけでは無くて、みんなが感じるのではないか?
目立ちたがりで、自分のヌード写真集を出したり、盾の会だってその一貫でホモ趣味が高じたんじゃないか?
そんな嘘っぽい人が、国を憂いて割腹するだろうか?
その番組を見ていたら、どうも1年も前にその割腹の日を決めていたらしい。
恐ろしい信念というか、律儀な計画性というか、殉教者に降りた啓示というか、呆れた。
1年も前に決めたスケジュールだからなのかタイミングも完璧にずれていて、みんなポカンとしただけだった。
いかにも三島っぽい嘘っぽさだと、多くの人は感じた。
一緒に死んだ森田必勝というのが、潮騒の新治のような三島の作品の美しい純朴な青年がそのまま実在になったような人物だったらしい。
それなら、一緒に華々しく死にたい気持ちは理解できないこともない。
僕は、1度だけ三島本人を見たことがある。
新宿に、その当時アートシアターといういわゆる前衛的な映画観が有って、そのわきの方から入る地下に、蠍座といういかにも三島好みの名前の狭い劇場があった。
そこで「アッシャー家の薔薇」という演劇が掛かっていて、パイプ椅子を並べて50~60人しか入れない席の斜め前に座っていた。
いかにも三島好みだったけれど、彼の作品では無かったように記憶している。
終わった後、役者とかにあれこれ感想を言っていた。
当時大学生だった僕は、あ~しまった。三島の文庫本でも持って来ていたらサインしてもらえたかも?とか、さもしいことが頭をよぎった。
しかし、その本物の三島由紀夫の印象は、チビで貧弱だった。
ボディービルをする人は、そのような肉体的なコンプレックスを持っている人が多く、三島もヨットで鍛えた慎太郎にバカにされていた。
「仮面の告白」はまことに素晴らしい。「金閣寺」は嘘っぽい。近代能楽集は素晴らしい。
「潮騒」は完璧だが昔の交響曲みたいなもので、佐村河内さんのような演出が無いと時代遅れとも言える。
たくさん読んだが、僕が一番好きなのは「午後の曳航」だ。
現代的で、神話的で、地中海の雰囲気がある。
しかしその小説は、少年が壁のふし穴から美しい母親と外人の船員の情事を覗くという話だった。
また、ふし穴からの覗きだ。案外、僕はそんな趣味があるのかしら?
まあ、のび太もジャイアンもスネ夫もそこは同じだろうから、ことさら老人が反省すべきことでもない。
番組である人が、100年後に「三島神社」が建つかもしれない。と言ったが、それは間違いなく建つように感じた。
建ったら、僕もお参りしたい。
どうも、かっこよく死ぬための口実であったような気がしてならないが、たとえそうであったとしても、今でも衰えないそのインパクトのパワーは神社に祀るほどの意義はある。
フセインやカダフィーの最後を見ると、アメリカのやり方は今でさえ恣意的で冷酷非情で残虐だから、特攻が無かったら間違いなく皇室は残らなかっただろう。特攻や硫黄島などで震え上がらせたからアメリカは本土決戦の地獄の戦闘を回避した。
核実験の効果の検証には盆地が最適なので最初の目標は京都だったという。ほんの偶然で免れたようだ。
京都と天皇が消滅したら、日本の文化と伝統のほとんどが無くなるに等しい。僕が住む北海道はソ連のものになっただろうし、間一髪だった。
まさに神風が吹いた。そう思うと、三島は特攻が大戦果を挙げたのだということを教えてくれたようでもある。
いつの間にか僕も、天皇=国体を護持することが日本人の使命であるように思えてきたのだ。
よいものはすべてそこから来ている。次代に引き継がなくてはいけないはずだ。
いま思いついたのだが「午後の曳航」は、美しい未亡人の母親が日本で、外人の船乗りはアメリカのことで、その情事を覗いているのが戦後世代で、その男の逞しさに目がくらんで惹かれていたのだけれども、愚鈍であることに気が付いて幻滅して殺す。という構造だったのだろう。
亡夫は、もちろん書いてはいないが、当然特攻隊員である。だからこそ、その情事は退廃的な背徳性を帯びているが、アメリカ人にそのような高尚な美意識を求めても無駄なわけで、幻滅して殺意が・・・という話だったわけだ。
そうに違いない。だから神話的だったんだ。なるほど~
ノンポリの大学生が、そんなアナロジーが分かるはずがないや。
このふし穴の意味も、45年も経って気が付いたな~
そのような問題意識を持つと、そう読めるという仕組みなのだろう。だから、嘘っぽくもあるんだよね。
鋭すぎる美意識がそうさせたのだろうが、やはり、なんかおかしいな~
自意識過剰で疲れて死にたくなる。大嫌いだったはずの太宰と同じ現代人の病気に憑りつかれている。
やはり、神社に祀らなくてはいけないな~
パチパチと柏手を打って、御霊を鎮めなくてはいけない。
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