がんび皮剥がし

僕の診療所がある天塩町は、北海道の中では最初期のころに拓けた町だ。
天塩川という日本で4番目の大河の河口に出来た町だからだ。
その川の上流で木材を伐採し、筏にして河口まで運ぶ。
その木材を沖に停泊している帆前船で内地(本州)まで運ぶ。
乱伐で木材資源が枯渇するまで長い間、景気のいい町だったようだ。
大きな料亭まであったらしい。
 
僕の診療所は、中央分離帯に散歩道がある幅広な生活道路に面している。
その広い道路は、木工所から川まで材木を運ぶトロッコの線路の後に出来たものだ。
僕が生まれたころにはもう線路は無かったが、木工所はまだ営業していた。
僕の診療所は、その材木置き場の跡地だったところに建てたものだ。

僕の子供のころは、材木置き場にほっかぶりしてモンペを履いたお母さんたちが何人も集まって作業していた。
がんび皮剥がし と言っていた。
バールのような木の皮をはがすための先がノミのような道具でせっせと木の皮を剥がしていたのだ。
工賃は出ない。その代り、自分で剥がした木の皮は持って帰ってよいことになっていた。
工場としては、製材するのに不要な木の皮をただで剥がしてもらえる。
お母さん方は、冬の間の薪ストーブの焚き付けが得られる。
戦後、天塩町はカラフトからの引揚者がたくさん住んでいて、仕事もなくとても貧しかった。

けっこう辛い力仕事だったと思うが、近所のお母さんたちは歌を歌ったりおしゃべりしたりしながら、みんな楽しそうに作業していた。
ストレス解消になったのではないか?
とにかくお母さんたちは一日中よく働いた。
その頃は、もちろん水道もなく手漕ぎポンプで水を汲み、洗濯もタライで、冷蔵庫も炊飯器も掃除機も無かった。

奥歯が無いのに入れ歯を入れていない年配の患者さんに、前歯ではラーメンかうどんぐらいしか咬めませんよ。と言ったら、うちは貧乏だったからうどんばかり食べさせられたので、うどんは大嫌いと言われたことがある。
確かに、昔はうどんをよく食べた記憶がある。
イモとカボチャ団子が主食の家も多かった。
友達の家に遊びに行って、薪ストーブの上で焼いたカボチャ団子をごちそうになった。
うちでは食べることが出来ないおやつで、とてもおいしくて楽しみだった。

僕たち子どもは、みんな吹き溜まりのようになって一日中、舗装も無かった道端を走り回って遊んでいた。
いつの間にか夕方になって、矢野彰子の歌のように、あちこちの家の前から、
 ごはんだよ~
とお母さんたちが叫ぶ。
あのころの時間は、無限に長かった。
お母さんたちは、子供たちをほとんど放任していた。
そんな余裕なんてなかったからだけれど、生活の向上と家庭電化のおかげで、今の子供たちはしっかり管理されるようになったというわけだ。


夕方患者さんが途切れたときに、窓の外の雪が無くなった道を見ていて、ふと思い出した。
ここで、近所のお母さんたちが陽気に がんび皮剥がし をしていたんだな~と、しばし感慨にふけった。
あの頃と比べると、今の途上国のお母さんたちでもまだ楽をしているような気がする。
家庭電化製品が、女性を解放したことは間違いがない。
特に、洗濯機の功績は素晴らしかったのではないか?
あの頃のお母さん方と比べると、例え生活保護家庭でも中流に思える。
僕たちは、ただ周りと比較して幸不幸を感じているだけだ。
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あれやこれや | コメント(1) | トラックバック(0) | 2013/04/26 00:00
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