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7年目の浮気

このブログが今日で、ついに7年目を迎えた。
2~3か月前から急に意欲が薄れてきて、先行きが怪しくなってきた。
その訳は自覚している。
くうにゃんのブログと同じ状態になってきたのだと思う。
僕は、くうにゃんのブログに触発されて始めたので、くうにゃんのブログが不意に停止した時にその理由がすぐに分かった。
くうにゃんはあご切り矯正後の不定愁訴が苦しくて、その闘病記を延々と書いていたわけだが、くまごろう先生の治療が奏効して不安定な苦しい時期を脱して各種の代替医療でコントロールできるようになったので、急に苦しかった時期のことが思い浮かばなくなったのだと思う。それで、ブログが停止した。

不定愁訴というものは、どんなにそれが苦しくても器質変化した病気にまで至っていないので、バランスが取れると急に何でもなくなり、苦しかったことも忘れてしまう。そんなものなのだ。
先月、舌痛症とうつの症状で苦しんでいる方の身内の人から問い合わせがあった。
それからどうしたかは分からない。治療されるのか他に当たるのかは不明だが、舌痛症とそれに続くうつ症状とかは、そのようなバランス崩れであって、バランスを回復したら嘘のように晴れやかになるものなのだ。
そうすると、もともと何ともなかったような気になる人が多い。

僕はそのような症状があってブログを書いていたわけではなく、あごろべえ先生のとてつもない大発見に仲間の一人として身近に立ち会って参加して、次々と新しい発見が積み重なって加わっていき次第に体系化していくのをわくわくして見ていて、その興奮がモチベーションとなっていたのだ。
急に意欲が薄れたのは、概要と体系がほぼ理解できたからだ。
2000年からだから、17年になる。一生懸命追いかけてきたものが、ある程度理解できた。なんか、ほっとして力が抜けた感がある。
もう一つは、ラッパの先生の自分を被験者にした気の遠くなるような人体実験の繰り返しによる研究がほぼ完成して、極めて単純な法則にまでエッセンスが凝縮されたことだ。
それによって、日常の歯科臨床における咬合の問題を誰もが容易に解決できる優れたセミナーが実現できた。
このことは、大変なことだ。
僕らの仲間の中には、ラッパの先生の咀嚼運動の調整はあごろべえ先生の発見したスウィング現象の一部に過ぎないのだからという考えの人が居るかもしれないが、このような考えはとんでもない間違いだ。
ラッパの先生の発見したエッセンスは、歯科医がこれまで培ってきた大系の延長上で出来る究極の予防医学であると言える。
あらゆる歯科医がこれを学ぶべきで、それによって日常の歯科臨床を迷いなく進めることが出来る。
その新しいセミナーのきっかけと方法論に少し参加できたことに、僕としてはとても満足している。
そして、アドバンスとしてあごろべえ先生のスウィング現象の大系がある。咬合育成、矯正、欠損補綴、咬合医療に関しては、この体系が必要になる。
これからは、この二本立てでたゆまぬ歩みを重ねていけば、必ず目的は達成できると確信した。


うわの空の・・・とブログの表題を付けたわけだが、僕は誰にもボケてると言われる。要するに、心がそこに無くていつもうわの空なのだ。
なんか、一つのテーマをいつも考えていて、現実に対応できていないようなのを自覚している。
だいたい15~20年周期でテーマが変わるようだ。
中学から結婚前までは文学青年だった。結婚してからは現実に対応する必要を感じて投資、次はその反動なのか宗教に興味が集中した。そして、また歯科医としての現実に対応して咬合。
なんとなく納得できるとそれで満足して、別なものに興味が移る。
近年は、同級生がほとんど隠居生活に入ったせいなのかもしれないけれど急に歳を意識してきて、ルーツというか日本という極めて特殊な国の本質を知りたいということに興味が集中してきたように感じている。これが、僕の興味の対象の最後のテーマになりそうだ。
こんなところで、僕のうわの空の人生が終わるような気がする。
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初めまして | コメント(2) | トラックバック(0) | 2017/11/03 00:00

咬合のエビデンス

還暦の誕生日から始めたこのブログも、ついに6年目に入った。
この前の大会にhazelさんが来てくれて、挨拶してすぐに写真よりお顔がふっくらしてますね。と言われた。
ブログに載せてある写真は、長男から還暦の祝いにもらったちゃんちゃんこの代わりの白衣ならぬ赤衣で、その時より5キロほど太った。
食べ過ぎ飲みすぎもあるだろうが、歳を取って代謝が衰えたことが一番の原因なのだと思う。
小太りな老人が一番健康だと言われているようだが、それは、歳を取って代謝が衰えたら自然に少し太るということなのだろうと思う。
ラッパの先生のように全く変化しないのは、肉体的に老化していないということなのでしょう。
たぶん、あの人は100歳まで生きるね。
また、謙虚でへりくだって和をもって尊しとなしている方なので、老害が無いからその資格がある。
僕は、どうも性格が攻撃的で良くないから、早めに退席しないとまずいと思っている。

ところで、この前の大会で暇そうにしている僕がランチョンセミナーの講師に指名されちゃって、仕方がないからスライドを作っていて、

 咬合そのものにエビデンスが無かった。

という、まことに攻撃的で性格の悪い、しかし、真実のフレーズを見つけたことは痛快で気持ちよかった。
全く正反対の理論がまかり通っているわけだから、当たり前で、何をいまさら?の話なのだが、「それをいっちゃ~お終いだよ」で、誰もそう言った人が居なかったと思う。

離婚する時は、性格の不一致などではなかなか別れがたく、他の女(男)が出来ると決心するようだ。
つまり、異なる将来に対するはっきりしたビジョンが無いと、いわゆる未練が断ち切れない。
あれやこれやの中に居ては、あまりにも当たり前なことすら思い浮かばないものなのだということが分かった。

つまり、咬合のエビデンスが見つかったから、あの女にはエビデンスが無い。ということに気が付いたわけだ。
無明の中に居る凡夫には、女神か勇者が現れないと何も目に入らないということなのだろう。


 相見ての のちの心にくらぶれば 昔はものを思わざりけり

恋の歌なのだが僕には、真実に出会って、夢想だにしたことのない自分の過去の行為の過ちに、やるせなく涙する気持ち。とも詠める。
なんと、愚かだったことか!悔いても悔い足りない。
でも、もう取り返しがつかないことだから、申し訳ないけど少し慰めもある、微妙なうしろめたさなんです。
初めまして | コメント(0) | トラックバック(0) | 2016/11/03 00:07

ご利益を融通してもらえるということ

一昨年の誕生日に、神社の祝詞が我々の思考形態を規定したのじゃないかということについて書いた。
除菌とか、消臭とか、ウォッシュレットとか、ラップとか、包装とか、日本人は他に比べて圧倒的に潔癖症だ。
また、新酒とか、新米、新茶、ボージョレヌーボーなど、新しいものを好む。
これらの性癖は、祝詞の 祓い給い清め給え という言葉によるものだろうということだ。
日本の神は、古くて薄汚れたものが大嫌いなのだと思う。だから、式年遷宮する。
あれに続く発見があったので、それについて書きたい。

お盆に京都の大原に行った。
あのデュークエイセスの歌があまりにも雰囲気があって、お上りさんの僕が京都に行くたびに気なっていた。
三千院は、紅葉の時には雰囲気があるのかな~とは思ったが、まあ、期待外れ。
そこから少し上ったところに、来迎院という閑散としたお寺があった。
そこに行く途中の登り道に、そのお寺の縁起がペンキの看板絵で、絵巻物風に4~5枚立てかけてあった。
良人とかいうお坊さんの事績が書いてあった。
融通念仏宗を起こした人だという。僕は、不覚にも全く知らなかった。
そこの看板絵に書いてあったのは、念仏の修行をしてその功徳を、生活に追われて修行の余裕が無いため無知蒙昧でいる衆生に融通してあげる。という発願をして宗派を確立した上人の顕彰であった。
大阪に大きな本山があるらしいから有名な宗派で、僕が無知だっただけなのだろうが、驚いた。

僕の家は浄土真宗で、なまんだぶ と念仏を唱えれば死んだ後に浄土に生まれ変わることが出来るという教義であるが、葬式以外では誰も唱えない。
だいたい、そんなことに意味があると思っている人など居ないのではないか?
それじゃ、何も宗教心が無い中国人のような無神論者かというとそうではない。
その理由に得心がいった。

浄土系の宗派は法然からだと思っていたけれど、その前にこの上人が居たというわけだったのだ。
仏教というのは哲学で、認識なわけなので、勉強するか修行しないと悟りは得られない。
面白いことに、仏教は昔の宗派ほど教義が難しくて後になるほど易しくなってきて、最後はばかばかしいほど教義も修行も簡単になる。
改良されてきたというか、楽して儲けるスタイルに進化してきた。
良人とかいうお坊さんは先駆けなので、念仏を楽ではない大変な修行であると理解していたようだ。
滝の音が聞こえなくなるほど声明を唱えて、その一心不乱な念仏の彼方から阿弥陀如来が顕現してくるのだろう。

僕は、あのペンキ絵を見たとたんに、そうだ、僕はこれを信じていたんだ!と瞬間に確信した。
親鸞によって、まるでキリスト教のような罪の自覚が言われて僕も若い時には何か高級な感じがしたが、自分を振り返っても親や子供や友人や周りを見ても、欧米や中国にいると思われるような悪人は見当たらない。
悪いことをしないわけではないが、つい出来心で。とか、追いつめられて仕方がなく。ぐらいだ。
なぶり殺しにするのを楽しむとか、罠に嵌めることをもっぱらとするとか、大虐殺とか、強烈な人種差別・民族浄化のような感覚は、日本では精神異常者しかいない。
コンピュータを考えると、インストールされたプログラムによって脳のCPUが情報を処理するわけだから、罪びとプログラムがインストールされると罪びとが出来上がり、清明心がインストールされると、祓い清める程度で済む人間が出来上がる。
そうに違いない。
たぶん、日本の仏教の進化の歴史は、生前の行いで神社に祀られるかどうかのようなランクの違いはあるだろうが、もともと難しい勉強や修行をしなくてもちょっと身を清めていれば死んだら平等な神様?になれた神道の認識に戻すことだったのではないか?

浄土真宗では、阿弥陀様によって浄土は約束されているからお礼の念仏だというけど、そうかな~ 阿弥陀様だけの性格だろうか?
クリスマスと除夜の鐘と初詣がよく日本人の宗教観を表すこととして言われるが、そのように何教であっても構わないのは、ご利益を融通してもらえるというのんびりとした信頼感が中心にあったのではないか?
そして、結局何の修行も悟りも必要が無く、死んだら戒名が付いて皆が仏になれることになった。
日本が発明した、神仏習合が最も優れた宗教だと思う。
普段何事も無い時は身を清めているぐらいでよくて、何か地獄のようなエアポケットに陥った時には仏典や聖書のような深淵に入ってでも何とか救いを求められる方策がある。これが、安全で有利な考え方だ。
宗教の持つ問題は、ほとんどがドグマ化とイデオロギー化によって起きている。
それは、単に思考停止状態が楽だからだろう。

穢れを祓って、身を清める。この自律的な反省と心がけを社会の成員がみな持っていて共有するから、安心がある。
キリスト教は、まっさらなCPUに黙示録みたいな破壊的なものをインストールしてしまうから、相当の数の正真正銘の悪人が出来上がるはずだ。それに、神と個人の1対1の契約では、社会の構成は成り立たない。
ぎすぎすした訴訟社会やグローバルスタンダードの搾取になるであろうことは、最後の審判で明らかだ。
神や仏以上の認識などあるはずがない。なぜなら、それらは人間の集合無意識の表れだからだ。
中国人のような唯物主義者は、まだお猿さんの段階なのだろう。

海外旅行をして分かるのは、食べ物も、サービスも、環境も、安全も、その他ほとんどが日本が一番だ。
それは日本人が特に優れているとかではなくて、祓い清める という大哲学で日本中がくまなく覆われているからだろう。


西方浄土のうわの空の夕焼け妄想を開陳してとても恥ずかしい。
しかし、脳のCPUが考えたことは、メモリーに仮に記憶されているだけだから、どこかハードなものに保存しないと忘れて跡形も無く消えてしまう。
諸行無常ではあるが、ちょっとメモしておきたいひらめきだった。
初めまして | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/12 00:00

同好会の楽しさ

ブログを書きだして5年目の誕生日となった。
65歳という区切りの歳とあって同窓会が続いた。
中高の同窓会は5年ぶりだったが、同級生がずいぶん歳を取ったのに驚いた。

5年前は、高校の同窓とは話が弾んだが中学の同窓とは何かかみ合わない感じがあった。
僕らの世代は中卒や定時制高校卒も多かったから、学歴の違いによる話題のずれを感じたものだ。
それは、摩擦を避けるために世間のイメージに合わせようとする傾向があるので、何十年も経つとホントにそのようなイメージどおりの人間が出来てしまうのだろう。
ところが、今回は高校の同窓会,大学の同窓会とも、本当におじいちゃんになった感じで覇気が乏しく、高校の仲間など久しぶりに会ったというのに11時になったらみんな寝てしまうありさまだ。
最後に中学の同窓会があったが、こちらは2時過ぎまで以前のようにワイワイやっていた。
あれ?これは何だろう?

定年というものが、いかに人を変えるものかがよく分かった。
前回の60歳の同窓会というのは定年前か直後だろうから、サラリーマン生活の地位がピークの時か直後で、みんな元気があった。参加者も多かった。
高校の同窓会は、主に公務員だった人が多かったようだ。今回は、孫の話と病気や健康法の話と再雇用先の話。すっかり枯れた感じで、朝早く目が覚めるからと、すぐ寝てしまった。
大学の同窓会も似たような感じで、全く覇気がない。それも、納得できる。
歯科大学を出たわけだからみんな歯医者で開業医だから定年はないが、歯医者が余っていると言われている昨今,もう開業何十年も経った古い建物のおじいちゃん先生のところにはあまり患者は来ない。
たぶん、ちょうど中高の同級生が定年になったあたりから加速度的に暇になったはずだ。
僕たちの開業した当時は歯医者は何所も患者で爆発していたから、最初の下手くそな頃は患者でいっぱいで、上手くなるにつれて暇になっていって、徐々に情熱と意欲が減退していって引退準備状態とでもいう感じがしないでもなかった。
中学の同窓会は、男は女の半分ほどしかいなかった。そして、多くは自営業で現役の事業主。まだまだ、元気溌剌だった。
引退した男たちは、もう出てこなくなったわけだ。
男は、仕事で大きく変わる。

それに比べて、女たちはどの同窓会でも元気はつらつだった。
話題もバラエティに富んでいたし、生き生きしていた。
和服で来たり、おしゃれもそれなりに力が入っていて、魅力のある人も多かった。
やはり、女はネコみたいなもので、つねに自立している。えらいものだ。

さて、僕はどうかというと、お前は太った以外は変わらないね~と誰にも言われれる。
父に似てはげないし白髪もごく少ない。男はそれが一番の変化だから、それが大きいのだろう。
もう一つ、病気がない。何十年も病院に掛かったことがない。それもあるのではないか?
自分の実感では、同級生と同じように歯医者はまるで暇になったのだが、引退準備どころか張り切っていることだろう。
老年期の男にとって、意欲を持てるものがあるかどうかは決定的なことだということが分かった。
これは、あごろべえ先生や、ラッパの先生、国士無双の先生、スマートに行こう先生、日の出の先生、のび太先生、斬り込み隊長、白ひげ先生、王将先生、耳なし芳一先生、その他の大勢の仲間と出会ったからだ。
この出会いが無かったら僕は,閑散とした診療室の中でうつうつとしていたのかもしれない。
まあ、本来それが僕には似合っていたような気もするし、人それぞれだ。
しかし、女と違って男は柔軟性に乏しく変化に弱い。ショックでやられやすいので、なかなか引退して趣味に生きるとも行かないだろう。ラッキーだったことは間違いない。
みんなに、とても感謝している。何よりも、この仲間を集めてくれた椋ちゃんに感謝している。

大会の後の打上げの懇親会は修学旅行の夜のようだと思っていたけれど、いつも一緒にいて旅の宿で羽目を外すのとはちょっと違う。
みんな地方にいて離れている仲間が一堂に会するのだから、同窓会なのかな~
でも、いつもメールでやり取りしているわけだから懐かしさはゼロだ。
趣味の「同好会」とでもいうところだろうか?
やはり、これが一番だ。
初めまして | コメント(0) | トラックバック(0) | 2015/11/03 00:00

ファイトー!一発~つ!スウィングキーパーD

また誕生日が来て、このブログも丸4年経った。
ついに5年目に入る。
この前から現状に満足してしまって、書くことが無くなってしまった。

自分の診療のこと、会の発展のこと、かなり満足しているが、一番満足しているのが入れ歯が上手くなったことだ。
インプラントや、矯正も少しやったりするが、やはり後でやりだしたものだから腕が伴わない。
もう、これらは止めにして、徹底的に入れ歯の名人を目指したい。

父が入れ歯の名人として近隣に名前がとどろいていた。
父に負けたくなくて、以前はほとんど入れ歯だけを勉強してきたようなものだった。
20年前から、そこそこ出来るようになって、入れ歯では以前のように恥をかくことは無くなった。
僕は、元々たいして大志を抱いていたわけではなくて、患者さんとの関係の中でそれなりに役に立ちたいぐらいの感覚だったから、満足してしまって入れ歯の勉強はやめて咬合と矯正とインプラントの勉強に集中してしまった。
だから、後で始めた矯正とインプラントは下手に決まっているし、得意なはずの入れ歯だって名声まではいかない。
これからは、父のように名人と言われるように頑張りたい。

 ファイトー!一発~つ!スウィングキーパーD

何のことか?これ、リポビタンDのCMをもじった。
でも、ふざけてるんじゃなくて、大真面目。
これが、僕の入れ歯の名人を目指す気合いで、宣言だ。

ファイトー!というのは、負けないぞ!という気合。
入れ歯は他の治療と違って、全ての患者さんが入れたその日に歯医者の腕を判定出来てしまう。
痛くて咬めない。口をあくと落ちてくる。おばあさん顔のままだ。
明確だ。歯医者にとって言い逃れする余地が無い。
だからと言って、私はもっと美しいはずだ。なんてことを慎ましい日本人が声高に言えるだろうか?
患者さんは人生経験を積んだ年配者だから、あからさまに下手だとか、全く駄目だ。などとは言わない。
申し訳なさそうに、私のあごがよくないものだから苦労をお掛けしてすみませんね~なんて言う。
かみ合わせを調整していたら、おずおずと、上の入れ歯じゃなくて下あごの歯ぐきが痛いんですけど、とか、私素人で分からないんですけど、ここの奥の羽根みたいなところが長いように思うんですけど。とか言う。
歯医者さんが傷つかないように気を使ってくれる。これが、かえって傷つく。
そして、こんなことも分からないのかしら、困ったな~というような、薄ら笑いが顔に張り付いている。
その顔を見ると、頭にカーッと血が上る。

それになんといっても、この言葉がグサッとくる。

 お父さんの時は、一発で入ったんですよ~

最近はさすがに父の入れ歯を入れている人はいなくなった。
僕が古くなって合わなくなった入れ歯をほとんど入れ替えたし、もう大部分の患者さんは亡くなってしまった。
でも、それまでは、必ず「お父さんは一発で」と言われた。

父が亡くなって少しすると、歯科雑誌や書籍やセミナーで入れ歯の大家らしい先生が盛んに、総義歯は治療用義歯や旧義歯の手直しなどをしてからもう一個。つまり、2個作らなくてはいけない。なんてことを言う。
つまり、2発で作るということ。全く納得がいかない。
父は、入れ歯を入れたら調整に来るようにとも言わなかった。もし痛かったら来るように。というだけだ。
痛くて調整に来るのは、ほんの一握り。大部分はほんとに一発だった。

 男なら、一発で入れなくては!

それで、何度恥をかいたことか。男はつらいよ。

 目方~で入れ歯が売れるなら、こおん~な苦労は・・・
奮闘~努力のかいもなく、今日~も涙で~今日も涙で日が暮れる。日が~くうれ~る~


しかし、ついに、あごろべえ先生のおかげで、楽々と一発でいけるようになった。

それに、僕のアドバンテージは、「スウィングキーパーD」だ。
Dとはデンチャー(義歯)の頭文字。
スウィングキーパーとして頭を支えるための入れ歯ということ。
あごろべえ先生のおかげで、ここは父にも勝っている。

 スウィングキーパーデンチャー 

新しい概念だ。しかし、これこそが欠損補綴の真の目的でなくてはいけない。
しっかり頭を支える。それが歯科治療の必要条件でなくてはいけない。
僕は、「スウィングキーパーデンチャー」を極めたいな~
今まで入れた総入れ歯の患者さんを全部作り直すまでは、歯医者を辞めないぞ~


初めまして | コメント(0) | トラックバック(0) | 2014/11/03 00:45
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